熊野簡易裁判所 昭和41年(ろ)5号 判決 1967年2月10日
被告人 高田啓
主文
被告人は無罪。
理由
一、本件公訴事実は
「被告人は自動車運転者であるが、昭和四〇年九月二七日午前一一時ごろ三重二う六八号大型乗合自動車に車掌森みずほを乗務させ、乗客二〇名位を乗車せしめて運転し、熊野市磯崎町大字立石一、一五四番地附近の幅員五メートルの道路を東進して、同所の道路左側は切り立つた岩石の崖になつている左カーブの一〇メートル位手前に差しかかつて対進自動車を認めてその場に停車し、同対進車に追従して来た小型四輪自動車が同カーブの向つて道路右端に寄り進路を譲つてくれるのを認めて警音器を吹鳴し、左右バツクミラーにより乗客が手などを車外に出しておらないのを確認したうえ発進し、左側岩石の崖にすれすれになるよう自車を道路左端に寄せて時速五キロメートル位で進行したものであるが、かかる際、僅かな距離を進行する間でも、車体左側に席をしめる乗客が手や顔などを窓外に出すやも計り難く、左側の岩石に手や顔を打ちつける危険も予測されるので、自動車運転者としては、予め車掌に命じて乗客に対し、車が左側岩石の崖にすれすれに進行する間、左窓外に手や顔を出さないよう警告せしめるなど適宜な方法を講じて事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるに拘らずこの注意を怠つたまま進行した過失により、偶々左側窓から顔を出した乗客の山口裕司(四年)の頭部を岩石突出部と車体窓枠に挾圧せしめ、よつて同人をして頭蓋および頭蓋底骨折により、その場において死に致したものである」
というのであるが、右公訴事実中被告人に過失のあるとの点を除く事実は、当公判廷において取調べた各証拠よつてこれを認めることができる。
そして右事実の外、<証拠省略>の各証拠によれば、被告人は三重交通株式会社南紀地方営業部に勤務し一般乗合旅客自動車の運転業務に従事していたもので、昭和四〇年九月二七日午前一〇時四〇分熊野市駅前発磯崎行き大型乗合自動車(車掌森みずほ同乗)を運転して本件事故現場にさしかかつたものであること、被害者山口裕司(満四才)は母親山口つぐえに伴われて右同日午前一〇時四二分ごろ熊野市内紀念通り停留所から右乗合自動車に乗車し、その直後から同車の進行方向に向つて左側後部から三つ目の座席に被害者が窓側に、母親つぐえが内側(通行側)に並んで席を占めて本件事故現場にさしかかつたものであること、被害者母子が乗車した以後事故現場に至る間、上木本停留所、大泊停留所の二ケ所で客の乗降があつたこと、本件乗合自動車が対向車とすれ違うため一旦停車した地点から事故発生の地点に至るまでの道路左側は高さ約一〇メートルの岩肌をのぞかせた崖になつていたこと
の各事実を認めることができる。
二、そこで先ず右事実関係において、被告人に検察官主張のような業務上の注意義務を要求することが相当であるか否かについて検討する。
もとより旅客を輸送する自動車の運転者は、道路の側端に沿つて岩崖が切り立つている場所で、岩崖に車両を接近させて進行するに当つて、車両を岩崖に接触衝突させないように注意することはもちろんのこと、乗客が窓外に手や顔を出すおそれの予測されるときは、車掌に乗客の動静について安全を確認させるとか、自から可能な範囲で安全確認の方法を講じたうえで岩崖に接近進行すべき注意義務の課されることは、乗客の安全輸送を至上とする業務の性質上当然といわなければならない。
しかし、本件のように車掌を乗務させて運行しなければならない大型乗合自動車で(自動車運送事業等運輸規則第一五条)しかも、不特定多数の乗客が停留所毎に自由に乗降する一般乗合自動車が障害物の側方に接近して通過する場合において、運転者は危険の発生を予測できる外部的徴表の有無に拘らず常に予め車掌に対し、乗客に窓から手や顔を出さないように警告を与えるべく指示しなければならない注意義務があるとする検察官の主張には、にわかに同調できない。
思うに一般乗合自動車の運行中における乗客の動静に対する観察、指示および警告の如きは、前記運輸規則第三四条第三五条ならびに本件証拠として提出された三重交通株式会社の自動車乗務員勤務規程の趣旨をも参酌して考えるに、これらは料金徴収業務などとともに車掌の職務の中核をなすこと柄に属し、車掌に対しては、乗客の動静によつて車両の運行に支障のある場合で、しかも運転者がその状況に気づいていないと認められるときは、運転者にその旨連絡し、その状況によつては、停車除行など運転操縦について具体的な合図をなすべき固有の注意義務さえ課されるものと解される。
更に乗客の側についても、一般乗合自動車の交通機関として有する公共性、必要性から考えて、進行中の車内から手や顔を出そうとする乗客は、運行中通常予想される車両の動揺に備えて荷物を確実に網棚に載せるとか、座席に坐われない乗客が身体の動揺転倒を避けるため支柱などから手を離さないようにするのと同様に、乗客自身軽度の注意をするだけで、危険な結果を回避できる場合は、乗客自身危険を負担すべきであつて、これは一般乗合自動車を利用する通常人に課された公平な義務であると解するのが相当である。
また、交通の状況によつては、いつ他の自動車や危険物に接近することがあるかもわからない道路運送機関たる乗合自動車の乗客は、専用軌道を走行する汽車や電車の場合以上に、窓外に手や顔を出そうとするときは、自から慎重に行動すべきであるといつても必ずしも不合理とはいえないものと考える。
しかも本件においては、前記認定の地形や、被告人は対向車とすれ違うため一旦停車した後発進するに際して警笛を吹鳴したこと、および発進後の速度は時速五キロメートルの低速度であつた点などからみても、乗客が車両が岩崖に接近することを認識するのは極めて容易であつたというべきであるから、乗客自身僅かな注意をなすだけで危険の発生を防止し得たことは明らかである。
従つて、運転者たる被告人が車掌から何らの合図もなかつた場合において、車両の進行中窓外に手や顔を出そうとする乗客は、自から危険のないことを確かめる程度の注意をなすものと信頼して、車掌に何らの指示も与えることなく、そのまま運転を継続したとしても、これをもつて刑事責任を負うべき業務上の過失があつたものということはできない。
すなわち、検察官主張の被告人に対する注意義務の要求は、被告人が単に窓外に手や顔を出すと危険であることを予測し、または予測できる状況にあつたというだけでは足りず、被告人自身、窓外に手や顔を出すおそれのある被害者の動静を認識していたか、または容易に認識できる状況にあつたにも拘らずこれを認識しなかつたというような特段の状況が認められない限り、如何に乗客の安全輸送について主たる責任を負うべき地位にある運転者とはいえ酷に過ぎると解される。
もし、右のように解しないと、運転者は本件のような場合だけに限らず、他の乗合自動車や貨物を積載した貨物自動車などと、僅少な側面間隔ですれ違う場合においても、たえずその挙措に出ることが要求されることとなり、これは発達した現今の自動車運送の実情に照らして、極めて困難を強いることとなり、ひいては運転者に対し、あまりにも多くを求める結果、運転者として最も注意を要求される車両の運転操縦をおろそかにし、かえつて、重大な事故を誘発する原因ともなりかねないというべきである。
次に被害者はいまだ危険を予知し、結果を回避する能力未熟な満四才の幼児であつた点についてであるが、かかる幼児が単独で一般乗合自動車に乗車するようなことは異常なことであること、およびかかる幼児を伴つて乗車した保護者は、少なくとも前記のように乗客として自己に要求される危険防止上の注意と同一範囲で、被保護者たる被害者の動静について注意義務を負うべきことは、民法の監護者の規定を引くまでもなく当然のことというべきであるから仮りに被告人が乗客中に被害者の存在を認めたとしても、前記の考え方に影響を及ぼす理由はない。
三、ところで、被告人は事故発生まで、乗客が窓外に手や顔を出すおそれのある状態はもちろんのこと、乗客中に被害者の存在することすら認識しなかつたと主張するので、果して本件においては、前記のような特段の状況を認めることができるか否かについて検討する。
一、中林鶴子、速水敦子の各司法警察員に対する供述調書によると、これに反する山口つぐゑの司法警察員に対する供述調書および同人の当公判廷における供述と対比しても被害者は本件乗合自動車が本件事故現場の直前の停留所である大泊停留所を過ぎるころから、窓外に手や頭を出す危険が予想される状態にあつたものと認めることができるが、しかし反面、前記当裁判所の検証調書、司法警察員作成の実況見分調書、中林鶴子の司法警察員に対する供述調書、証人森みずほに対する尋問調書および被告人の供述を総合すると、車両左側のバツクミラーによつては、被害者の位置で窓外に頭や手の一部分を僅かに出した程度のものを認めることは困難であつたこと(道路運送車両の保安基準第四四条も参照)、また、車内前面窓枠上部に取付けられてあつたルームミラーによつても、その角度の如何によつては、被害者を認めることは不可能であつたこと(ルームミラーが被害者を写す角度になつていたことを認めるに足る証拠はない)、被告人は被害者が頭部を打ちつけたと認められる岩石突出部分の地点から一二、三メートル手前で一旦停車してから発進する際、左側、バツクミラーで窓外に手や顔を出している乗客のないことを確かめたこと、被害者はその後事故発生地点の五、六メートル手前で頭部だけでなく胸の辺までも窓外に突き出したのであるが、そのころ既に車両の左側については車掌の誘導が開始されていたので、被告人の主たる注意は前方ならびに対向車との接触回避に向けられていたことなどの各事実を認めることができるので、これらの各事実に運転者がバツクミラーやルームミラーによつて乗客の動静を観察するようなことは、前方注視のようにたえず継続してなすべき性質のものとは考えられない点、更に本件乗合自動車にはルームミラーの取付けおよびその角度などが法令上義務づけられていない点(道路運送車両の保安基準第五〇条第三項第五号)なども合わせて考えると、前記のように被害者の動静が窓外に手や頭を出す危険を予想できる状態にあつたからといつて、直ちに前記特段の状況があつたものと認めるには、なお証明不充分といわざるを得ない。
また本件においては、その他前記特段の状況を認めるに足る事実ならびに被告人が本件事故発生を回避するについて適宜の方法があつたにも拘らず、これを怠つたと認めるに足る証明もない。
なお被告人の司法警察員ならびに検察官に対する各供述調書中には、被告人が自己の過失責任を認めた記載があるが、これらは結果論的判断を表示したものと解されるので裁判所の前記判断をなすについて何ら支障とならないものと考える。
四、結局本件においては、危険を予測判断する能力未熟の幼児である被害者を伴つて一般乗合自動車に乗車した母親、ならびに乗客の動静を容易に観察できる立場にあつた車掌の過失の有無は別として、運転者たる被告人に対しては刑事上の処罰に相当する業務上の過失を認めるに足る事実の証明がないものとして刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をする。
(裁判官 長屋義一)